奥歯で口内の肉を噛んだ。痛くはない。屈辱を感じているわけではない。特に意味はない行為で、意識もないままに噛み合わせていただけだ。薄い皮膜が切れて少しだけ爛れた。血が出るほどでも、ない。
ではその血は、と視線を動かす。冷たくなりかけた内臓を守ろうと、手綱の切れた馬車のように血管を行き交っているのだろうか。破れた脇腹の肉から泉のように湧いて、どくどくと生き急いでいた。

そこだけ別の生き物のようじゃないか、と笑い掛けてきた声がただ耳に温かい。言葉を吹き込むために顔に寄せられた相手の唇は、一ミリも掠めることなく離れていく。せめて一瞬でも触れ合えたらいいのに。
俺の腹は別の生き物として血でコーティングされてきていた。固まってきた液体の色は黒ずみはじめていた。なんだ、はじまりばかりじゃないか。酸化していく嘗ての赤いたまは、もう酸素を運べない。地面に広がった数々の戦いの痕は、俺の死体で上塗りされる。ここは変化していく世界で、それ故に、この口に血は流れない。

「ねぇブロント、数学は好きかい?」
「、さ、っぱり、だなァ」

頭上から降り注ぐ声に目を伏せて答える。睫毛についた血が固まって重い。振り絞った声に呼応して、えぐれた腹は痙攣していた。

「おもしろいことを教えてあげようか」

簡単な基礎の基礎だよ、と、何が愉しいのかくつくつと笑う頭上の化け物は、足先で肩をつついてきた。上半身はまだ感覚があるようで、鎖骨が痺れた。数字くらいは知ってるよね、と屈託なく問いかけてくる。天の声みたいだな。ぼんやりしてきた頭で思う。素数ってわかるかな、というあどけない神様に、馬鹿にするなよ、といい返した。けれど零れ落ちたのは言葉ではなく、ごぼり、と溢れた液体だった。口付近が荒れまくっている。倒れ伏す自分の汚さに辟易した。

「素数を見つけるために、結構昔から使われている方法」

わぁ、どんな方法だろう、茶化すように口を動かす。声になっているのかはもうわからなかった。鈍く痛んでいた肩も頸も胸も嘘みたいに痛覚を手放していた。
こんなに脆く呆気ない自分の身体にも、血が流れているのが不思議だった。今も愉快そうに、俺の右手側に位置する仲間の死体を焼く精霊には、血なんて流れていないようだった。どこまでも綺麗な奴だな。腹立たしくも誇らしく嬉しくて、こいつに従う魔物たちも、こんな気分なのかな、と漠然と思った。

「例えばね、そうだな、素数に2ってあるだろう?」

2は偶数で唯一の素数なんだよ、素敵だね、恍惚とした声が届く。目を開けてその表情を確認したいけれど、ひどく億劫で、うん、と脳内で返事をした。お前が素敵と思うものは素敵なんだろう。自分の声すら拾わない、既に機能していないはずの耳は、どうしてか相手の声だけはきちんと処理してくる。頭も、どんどん素直になってくる。ひねくれて歪みながらここまで旅してきたのに、意識をなくす直前は純粋だ。倒そうとしていた相手の言葉さえ鵜呑みにしている。
偶数は全部2で割り切れちゃうから素数じゃないでしょ、だから、たくさんの数の中から、外すの。次いで、ボゥ、と音をたてて仲間の死体を焼くお前の声音に、少しだけ寂しそうな余韻が含まれているのに気づいた。俺の前でそんな声出すなよ、もう、誰かを引き連れていく力は、ないんだ。お前が奪ったんだ。

「そういう風にね、合計数をふるい落としていくんだ」

3を約数に持つ数も篩にかけて消しちゃうし、4は2があるでしょう?既に消えてる。5は素数、6は偶数だし、さっき消しちゃったから、パス。そうやって、いく先々で数が消えているのに気づきながら、残っている素数を数えるんだ。
アァ、もう何も聞こえない。お前が泣いているような気がする。わからない、何にもわからなかった。ただ、自分はこのままなくなってしまうのはわかった。脇腹から中身であったはずのものに包まれて生まれ変わる。表裏一体なのだ。口が開かない。ざらつく内壁に触れた舌が固い。その舌に血は流れない。

唇に、微かな感触がした。触れ合えたのかもしれない、わからない。さっぱりだなァ。

「ふるい落とした数も、整数なのにね」

たったひとつの偶数が、篩に残るはずなんだ。

ねぇブロント。



(君の唇から舐め取った血は、確かに甘かったよ)

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