いつだったか、髪ゴムが切れた時があった。

せっかく髪を綺麗に束ねられて、こんなに上手く結えたのは初めてだったのにとかそんな平凡な感情しか持っていなかったけれど、それでもあいつは目の端できっと見ていた。
その時の目。俺を見るあいつの視線は怖いと思った。俺を、見ているのかはわからない。
俺にいわせればこの不条理な世界なんかよりずっと怖かった。(まぁ俺の世界なんて写した誰かの一瞬が全てで、ということはこの戦士はあの視線が怖いのか)

とにかく大嫌いなのだ。いっそ消えてもらったほうが良かった。
いらないからってゴミ箱にでもインされてしまえばいいのに。殺せ、と命令しかけて、既に他の鏡たちは形を成さずに倒れたことを思い出した。誰がリーダーなのかさえ皆は忘れている頃だろう。忘れている、というのは正しくないかもしれないけれど。自嘲する。そもそも俺たちに記憶はない、あるのは写されたいきものの器。
もう動かない割れた仲間たちの死体はおそらく泉の水底で浮かばれないままなのだから。

此処には、あいつと俺しかない。でももうそろそろ俺もなくなる。俺の場所なんてどこにもない。だから、鏡みたいに綺麗なあいつの目に自分が映るなんて思いたくなかった。こんなにそっくりなのに、俺はこいつだけは写せないのだ。こいつには器がないから。

赤い瞳にだらしなく金髪を垂らす醜い姿があるなんて嫌で仕方なかった。視線を外すと、冷たい指が自分のほうへすっと伸びてきた。

「結えばいいだろう」

易々しく云うな。楽しんでなんかいないのに口元だけを上げて笑っている。細い指が金髪を絡めて動く。

泉はきらきらうざったくて、(どうせ淵もしくは底には俺の仲間の血が溜まっているし)風は全然吹かなくて、(草なんか萎れてるし)あいつは俺を見てなどいない。
それなのにあいつは金髪を触っている。きっと見ていて見てはいないのに。
俺を愛する振りをする。

「きれいだな」

嘘。どうせそんなこと思ってなんてない。あいつはいつも考えてなんかいない。だから脳なんてない。
脳がないから殺して笑うし俺をもてあそぶし泉を血に染める。

俺はなされるままになる。泉の上でもたれるようにあいつに寄り添う。どうせ遊ばれるなら最後の最後にこいつの咽喉を喰い千切ってやる。
そこから鮮血が溢れ俺を染めるだろうけれどすぐ傍に泉があるし洗えばいい。嗚呼そういえば泉は仲間の赤で染まっていたのだった。じゃあ洗えない。逆に染まってしまう。それにこいつは咽喉が破けても死なない。

永遠に死なないなんてなんてかなしいんだろう。永遠を知れる代わりに終焉を知れないなんて。
ずっと過ごすうちにいつの間にか自分が削れてなくなってしまうなんて。
なんてかなしいんだろう。
俺ははじめから俺でない。なくすことはないのだ。この差はなんだ。

ぎり、と歯を食い縛り声を耐える。触れてきた指が冷たい。こいつは俺なんて見ていない。そもそも、俺自体がこの世界でしかいられない存在なのだ。誰かの一瞬を写すだけの鏡。

「どうした」

どうしたじゃない。おまえのせいだおまえのせいだ。
俺がなんでおまえの代わりに泣くんだ。声をあげなきゃならないんだ。

性感帯が疼く。なんでいつまでも俺で遊ぶ。おまえがまだ形を崩しているから、俺はいつも代わりに啼くのだ。

おまえには他にも死体がたくさんあるだろう。俺である理由なんてないくせに。欲しいんだ咽喉から手が出るほど欲しいんだ。

おまえが俺を見るという夢が。

見られる俺を欲している。浅ましくて少しだけ笑うと、ちょっと嫌そうに眉を寄せるあいつがいて、それもおかしくてまた笑った。

俺の仲間を殺したくせに。俺を殺したくせに。いつまでも無気力な俺の傍に来る。

淵から落ちてしまえ。
俺の仲間の血に、おまえが殺した罪の色に染まって這い上がってみろ。
どうせこいつは這い上がりなんてしないのだ。目に浮かぶ。泉の底にある9つの死体を眺めて微笑むだけだ。

そして呼吸をするのを止めるんだ。それがこいつの永遠の望みだから。ずっと口を閉じたまま、吊り上げたまま死ぬんだ。死ねない奴のころしかた。穏やかすぎて吐き気がした。触れた氷のような指先が憎い。

そんな楽に死んだら許さない。

「こわいね」

そういって笑うおまえが憎くて憎くて仕方なくて、それなのにどこか安心してる。
いきをして笑うおまえが俺の傍にいてくれるのが、この器の中を満たしていく。びくん。撫でる指に抗議するように睨んだって、高い嘲笑が響くだけで、そのくせ、その音を懸命に拾う俺が、たしかにいる。

こいつにとって俺はただの1つの死体で、ただ泉の底に沈めなかっただけの死体で、特別な何かなんかじゃない。
けれど俺がそうなりたいと願ってる。
おまえが愛したものになりたいと。

「愛してるよ」

そうだおまえは死体がすきなんだった。どうせ特別な意味なんか持たないんだ、おまえにとって俺なんて。
それでも口元からこぼれる気体が俺の期待を膨らせる。なんでこいつはこんなに優しい。

いつだって陰で死にたいと泣くくせに俺の前では必死に笑う。
そうしなければ死ぬかのように。そうすれば生きていると実感しているかのように。

もうそろそろ泉へ落ちるべきだと思った。俺が中見ごと落ちたら、こいつは共に沈んでくれるだろうか。答えがわかりきっていて、俺は啼いた。
さいごのさいごまで憎かった。愛して、と叫んだ、
気が向いたら髪ゴムだけでも手向けてくれよ。


「無理だよ」
「もう愛してる」

切れた髪ゴムの行方

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