山を初めて越えた。通ってきた谷の空気はどこも澱んでいて、比較的標高の高い山に囲まれていた私にははじめ、耐えられなくて何度か吐いた。けれど数日も経つと既に気にするまでもなくなっていた。この圧倒的な死臭も違和感をなくしていて、慣れとは恐ろしいものだと実感する。風に運ばれて溜まったままの臭気は徐々に薄れ、気づけば斜面は緩やかなそれに変わってきていた。すん、と鼻を鳴らせば、前を歩いていたアーチャーが顔を赤くして振り向いた。

「何、僕、臭い?」
「そんなことないですよ」

 にこり、微笑む。青い髪の童顔の男はあー、と意味をなさない言葉を放って列をいく。まだ細い山道では広がって進むことがないので、何度か過ごした夜のような疎外感を感じることは、然程なかった。
 しばらく進むと、後ろで木の折れる音がした。見ると、赤毛の少女が横道の枝を折って手にしていた。秋になると拳大の実をつけるその木は、付近に棲息する数々の無害な生き物たちに多くの恵みを与えてくれる。しかしその実はここ数年、見かけていなかった。

「枯れてる」

 赤毛の少女は枝の折り口を触りながら悲痛な声を洩らす。私は顔をしかめて手を握り締めた。
 私の村の方はまだましだった。山を進んできて、まずそう思った。今歩いている一帯の木々は形を留めてはいるけれど生きた青い匂いがしない。私は気落ちしているのを悟られないように静かに息を吐いた。山を離れることになってからこんなことを知るなんて、情けなくて自然と足が重くなった。

 少し歩いて、ぱき、と小枝を地面で踏んだ時、前方から、抜けたぞ、という声が上がった。顔を上げると、木々の間から平地が見えた。
 最後の山を下りてまず思ったのは、こんなものか、ということだった。あぁ、世界はこんなものだったのか。
 山で生まれて、山で育った。最期のときまで山に生き、山に死ぬつもりだった。敵じゃない、そういった彼らについていくことを頼んだのは他でもない自分なのだ。懇願した世界。
 呆気ないものだ、何もない。驚く程にただの平地だった。焼け焦げた草が申し訳程度に生えていたが、土は渇ききっていた。

「……普通、里とか、そういうものがあるんじゃないんですか」

 ひどい有り様に立ち尽くす。思いがけず声が鋭くなっていて、あ、まずい、と思う。同行を快諾してくれた、列の最後尾にいた男が隣に並ぶ。他の皆は散り散りに野営の準備を始めていた。

「あったんだけどな。やられたって噂はどうやら本当らしい」

 金髪の男はそういうと少し笑った。笑うところ?怒りのあまり手近な木を殴りつけると、男は震える私の肩を優しく叩いた。触るな、と思ったけれど、意に反して、大丈夫です、と男に笑いかけていた。笑うところじゃないのに。男は藍色の目を細めて、静かに離れていった。
 一行は野営の準備を終え、早めに休むことにした。まだ宵の口だが、歩き通しだった山越えで疲れ切っていた隊の皆は、少しの談笑に励むと、男女に別れて固まって眠った。
 遠巻きに見ていたが、疲れを感じない私は、番として焚き火を見ていた世話好きな男に、薪でも拾ってきますね、と声をかけた。男は人のいい顔で、気をつけて、と見送ってくれた。私は赴くままに細い道を戻った。

 やってきた時に少女が手折った木の前まできて、歩を止めた。折り口はすかすかで、その木が完全に死んでいることを如実に表していた。涙が出た。嗚咽を飲み込みながら踞り、木の根元にしがみついて、ただ泣いた。
 山を捨てて、こうして先を行くと決めたことに、後悔はないと思っていた。幸福とはかけ離れていても、ここに居場所があると思っていた。共に生きることを許してくれた者の顔はひどく穏やかで。それでも、先の見えないことの恐ろしさに、幾度となく足がすくんだ。気管がひきつって胸が苦しい。居心地が悪い。幸福の終わりを想像するが、まず始まりが見つからなかった。一体いつからの記憶が私の幸せなのだろう。
 根に触れた掌から伝わる冷たい夜の温度。標高の低いはずのここで、なぜこんなにも空気が薄いのか。木々は枯れた枝を張り巡らせて私を取り囲む。地に落ちている葉は微かに腐りはじめていて、湿った臭いがした。踞った膝を土につけたまましばらく泣いた。声を噛み殺し続けたが、悲しみが襲ってくるだけだった。
 がさ、という音がすぐ後ろでして振り返ると、金髪の男がにこりと笑いかけてきた。私に気配をさとられることなく背後に立っていた、腕のいい戦士は、今は鎧を脱いでいて、普段より身軽に見えた。驚いたが目を拭い、どうも、といってみる。さすがに誤魔化されない男は、うん、と返すと、静かな口調で語りかけてきた。

「やっぱり戻りたい?馴染めないんだろう、ここに」

 私は涙に腫れた目で隊長を見つめた。わかっていたのだろう、この人は。そしておそらく他の同行者たちも。私の不安定な白々しさに気づいた上で接してくれていたのだろう、帰りたければ帰った方がいいと。不甲斐なく思うけれど、その優しさが身に沁みた。慣れない敬語もぎこちなくって疲れていた。山の青い匂いが恋しかった。それでも、私は望んだのだ。膝に力を入れて立ち上がると、隊長は微かに笑んで、何もいわずに野営地に戻っていった。
 折れた枝の前に立つ私は、ゆっくりと冷たい緩い道を踏み締めて歩き出した。膝に付いた少しの山の土は、まだ自分で払うことはできなかった。

 前向きになりたいんです。もう振り向かないと決めたんです。ところでどっちが前ですか。

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