「灯台もと暗しっていうだろ?」

唐突に話しかけてきた声に、はじめ上手く反応できなかった。まず自分に話しかけてきたとは思わなかったし、その時ブルースはひどく酔っていて、もう二度と恋人など作らない、と世の中の全てのつがいどもを呪っていたからだ。ばか騒ぎしている常連らしき小男に殴りかかる悪酔いした若い男を見て野次を飛ばし賭けが始まる、薄暗いが熱気の籠った部屋に似つかわしくない、魅力的な声だった。煩雑とした狭く汚い酒場で安酒を浴びている、それが似合うような自分を含めた男たちの集いの場で出る声音とは思えない、まったくなんて羨ましい。ブルースは旨くもない酒を口に含んで、こんな声で甘い言葉でも囁かれた朝にはそれこそ楽園で暮らしているようだろうと思った。片腕ぶん位の直径の、所々欠けた小さな丸テーブルに杯を空けて置く。すると驚いたことにそこに、こぽりと琥珀色をした液体が注がれた。温かい裸電球に照らされたガラスは鈍く光り表面は宝石のように美しい。なんだこれは、こんなものがこんな場所にあっていいのかと誰に対してか思わず声に出さず叱りつけていた。というのも、数時間前突然別れを告げてきた恋人の瞳はとても綺麗な琥珀色で、夜のお決まりの台詞は君の瞳に乾杯だったわけで、自分はこんな安い酒場より劣っているとでもいわれたように感じたからなのだが。一体自分の何がいけなかったのだとブルースは不愉快極まりなく目を細めた。

そもそも自分はこんな賑かな酒場で一人で酒を飲むものだぞ気遣いくらいしたらどうだ空気を読めと脳内でひたすら叱咤しながら視線を上げると、何とも小綺麗な顔をした男がいた。にこりと酒瓶を小脇に携え片手にグラスを持って立っている相手にまるで見覚えはない。相席していいかと訊ねてくる声が先程気に留めた声であるのに驚き、あの台詞は自分に向けられたものだったのかと気づき驚嘆する。微笑みながら酒瓶をちょいと上げる仕草になんだこの神様に愛されているような笑顔はと不覚にも思ってしまい、こんな奴を作った神様を恨んだ。何も言わず仏頂面のままのブルースの前に勝手に椅子を置き座る。自然とそうするなら訊くなと思いつつも、注がれた琥珀を一口飲んだ。にこにこと始終笑っている向かいの席の相手は、電球に照らされて柔らかい色合いをしている髪を肩から垂らしながら自分のグラスに酒を注ぐ。こぽこぽと小気味いい音を立てる液体が途切れると、俺さ、と口を開いた。

「灯台に暮らすのの何が諺なのかと思ってたんだよね」

なんだこの話題は。こんなどうしようもない奴の吹き溜まりで話すことか。こんないい声で何故男なのだ。もしこれで僅かでも胸の脂肪がついていれば今頃世界中のつがいどもに自身の幸せを腹の底から叫んでいるのに。対面する作りのいい造形をちらと見て、ブルースは恋人が自分に求めたものに気づき悔しさに杯を握り締めた。世の中見てくれか。自身の青い髪はほぼいつもボサボサのままで櫛など入れたこともない。鼻も低くはないし少し目付きは悪いが目も小さくはないし、個々のパーツが不細工なわけではない。バランスか構成か、それともそもそも好みでなかったとでもいうのか。ならば何故あんなに愛を囁いてきたのだ。手のひらの中で震える液体の表面を睨む。ちくしょう性格だって歪んでいるとも。金もないとも。弄ばれたのか。液体は答えるはずなくきらりと光っていて相変わらず綺麗だ。旨くもないのに。相席している男は微笑んだまま杯を傾けブルースを見ている。砂埃にくすむ自分の髪とはまるで違う澄んだ青い瞳と目がかち合う。何とも言えない敗北感に襲われブルースは苦々しさと共に喉から音を吐いた。

「何の話?」

放っておけどこかへいってくれというニュアンスを含めた言葉を贈ったつもりだったのに、相手は目を輝かせて身を乗り出す。話を急かされていると勘違いしているのか。わざとなら終いには残りの酒を頭から浴びせてやるとブルースは固く誓った。水も滴る何やらを自ら実践するつもりは毛頭ないが。テーブルに置かれた青いガラス製の酒瓶を見ると、金髪の男は自分の杯を押しつけるようにこちら側に振って、乾杯と笑いながら言った。幸せそうに細まった男の目を見て溜め息を吐き、とりあえずブルースも杯を軽く振った。次いで嬉々として放たれる相手の言葉に、二口目の琥珀を盛大に吹き出すことになるなど、ブルースは思いもしなかったのだ。

「つまりさ、これからうちに住まないかって話だよ!」

「……は?」




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