たち消えたはずの気配を微かに感じながら、ガーグは片付けを始めた。
薄暗くなった室内が気に障り、硝子のない窓に目をやると、大きな雲が先程まで輝いていた太陽を覆い隠していた。澄んだ空とはお世辞にもいえない。灰色に染まる景色に向かって舌打ちし、代えの硝子の用意を忘れていた、と思う。
窓付近には粉々になった硝子の欠片が散っていたが、大多数は外の方に落ちたはずだ。内側から割られたそれは鋭利で痛々しい。
暗い中でも輪郭を捉えてまともに機能するガーグの目が苛立ちで歪む。
僅かな明かりさえないこの書庫の、この荒れっぷりの中で溜め息を吐くのも、もう何回目だろうか。やる気を削がれて手を止めると、床に散った本から放たれる古びた臭いが鼻についた。最早どのくらい触られることがなかったのかなど分かりはしない。保存作業をさぼり続けたマリンのせいだろう、インクは薄れていた。
おそらくこれからも転写されることなく、書庫の奥で朽ち果てていくはずだっただろうに、無残にも冷たい床の上でぐしゃぐしゃにされていた。
ふと、自分に似ている、と思い、そう思ったことに呆れた。
先程までいた者の言葉を思い出し、ガーグは散々たる室内で、また息を吐いた。



小さな手は、本棚にきちんと並ぶ背表紙を優雅に撫でていた。
革をなぞる指は白く細い。性別を判断させない容貌のそれは、確かに人型で、けれど人ではなかった。
柔らかそうな肌は温度を持たないのだ、と、以前バルトから聞いた。
お前は温度を感じないだろう、と言いたかったが、この方に体温などあって欲しくない、と思い、出かけた言葉を呑み込んだ。
自分に都合のいい仮説を呑み干すのは楽だった。
肩から背へと滑らかに流れる髪は、まだ硝子の入っていた窓から差し込む光を反射して美しい。ガーグはその一本一本を愛しく思いながら静かに見守っていた。

 「なぁ」

大気を揺らす声は凛としていた。ガーグは何も言わず顔を伏せた。

 「お前は私に生きて欲しいか、ガーグ」

今まで何度も繰り返し問われた質問。ガーグは口内が苦くなるのを感じながら、向けられた顔がどんな表情をしているのか、ただそれを思った。

 「私には、貴方様の望むお答えは出来ません」

苦味に痺れた舌を震わせ――いや、きっと身体も震えていただろう――声を振り絞った。
そうか、と言う声の後、一拍置いて、大きな音がしてガーグは顔を上げた。
主は、並ぶ本たちをただ淡々と床に打ち付けていた。バサバサとうるさい。
何をするのです、と声をかけるまでもない。慣れた。
けれど、眉一つ動かさず暴れる主の顔を見るのは、まだ慣れない。罵倒しながら物を壊していた頃の記憶は既に遠い。
バサバサという音がただ耳にうるさい。上げたままの首の骨が軋む。
ガーグは足元に落ちた本の柔らかな紙面が折れ曲がっているのをぼんやり意識していた。

 「飛び立つ音だね」

不意に聞こえた主の声に意識を戻したガーグは、相変わらず無表情な白い顔を見て少しだけ肩を震わせた。
その手は本を落とし続けていて、時々、 置かれる物の無くなった棚の表面を撫でては、次の獲物へと移動していた。
歩を進める主からは布の擦れる微かな音しか聞こえない。
もうこんなことでは息を荒げることすらないのだ、と思うと、咽喉に溜まった言葉が溢れてきそうで、ガーグは耐えた。
バサバサ。静かな狂気。ガーグの首が軋む。

 「鳥の、飛び立つ音だね」

どこか陶酔した声音に聞こえるのは気のせいで、抑揚のない言葉をかき消すように、本は音をたてて落ちていく。
束になって床を打つ音。バサバサ。
主は一冊だけをすっと落としたところで、突然手を止めた。落ちる音は不思議と聞こえなかった。
いけない、という微かな声が、麻痺したガーグの耳に届いた。

 「鳥がいなくなってしまうね」

呟きが響いた。自分に話しかけているわけではないのを確信しているため、ガーグは答えなかった。
窓の奥から差し込む光を見つめてから、動きを止めた主の唇がぼそりと何かを呟いた。

盛大に割れた硝子の欠片が舞い散る瞬間、主が少しだけ笑っているように見えた。

強烈な電撃の余波に揺れた髪は、やはり美しかった。逆光に晒された姿は、王と慕われるのも頷けるほどの覇気を放っていた。
本の海を踏み越えて、主は変わらない顔つきのまま、ガーグのいる出口付近に歩を進めた。
ガーグは割れた硝子が光を乱反射しているのを他所に、主が近づいてくることに意識を向け、身を強ばらせた。
足音は聞こえない。進んできた道沿いにふわりと紙が捲れる。
ガーグはただ頭を下げた。足を折ることは数百年前禁じられた。その頃からこの主は、飛べるガーゴイルには総じて甘いのだ。
主はガーグのすぐ前で止まると、すっと身体を折った。
何事かと更に身を固めたガーグの足元に落ちた、くしゃりと曲がった本を手にすると腰を伸ばした。
静まり返る室内に布の擦れる音がして、目の前の黒がこちらをしっかりと見つめるのを視認していたため、動けずにいた。白く細い指が持つ本はひしゃげていた。
赤く潤った瞳にいる自分の姿が情けなくて、ガーグは狼狽えた。こちらに向けられた顔が優しく微笑んだ。蕩けるような笑みだった。

 「お前は逃げるなよ、ガーグ」

ひどく、美しい声だった。首が軋んで、折れて、落ちてしまうのではないかと思うほどに、甘く美しい声だった。
主は射抜くような視線を送ってから長い睫毛を僅かに震わせて出口へと消えた。
ガーグを追い抜くその時に、手にあった本をまた足元に落としていったが、やはり音はしなかった。



ガーグは壊れた窓の向こうの空が灰掛かるのをぼんやりと眺めて、溜め息を吐いたのだった。


それでも試すように窓を開けていく貴方


いわれずとも既に囚われているのだ。
貴方の美しさに踏みにじられて、この首が落ちるまで。

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