コロシアムの空気は生温い。嘗て政治のために獰猛な魔物や生気を失った剣奴たちの命が出入りしていた名残のせいか冷たい印象のある土地だが、西から時々来る風が円形の壁に溜まることで比較的寒い緯度に関係なく肌を舐める大気は柔らかく、しかし決して心地よいものではない。と、ブロントは内心思っていた。が、口に出してしまうのは勿体ないという、小さな子どもが好きな食べ物は後でと皿の隅に寄せておくような感覚に遮られていてあえて言葉にしてはいなかった。共にこの地を踏んだ仲間達は息を詰めている。血の臭いが強いからだろうか。たかだか血の臭いくらいで不思議なことをするなぁと場にそぐわず呑気な感想を抱いた。今までだって自らその液体を外気に触れさせてきたくせに、善良な我が軍の皆々様は大好きなケーキを口に含んだら苦かったとでもいうように顔をしかめている。ブロントは塀に空いた沢山の穴の一つから闘技場の中心部を覗く。案の定敵軍こと闘技相手の立つ土の上にはたぷたぷとした赤が広がっていた。乾ききっていないそれをぱしゃぱしゃと踏み締めて定位置に戻るゴブリンの顔には古びた傷が刻まれていて、ピンクの肉に埋もれる大きな目は開ききった瞳孔をぎらつかせていた。ごめんなと心の中だけで謝る。行きますか、左後ろから緊張した声をかけてきた鉄の鎧に身を包んだ男にそうだなといって作戦を確認しあう。敵の数しか知らないためろくな戦術ではないが、作戦なんてものは元々あるようでないものだとブロントは思っている。結局少したつと自身の殺戮の才能に溺れてしまうのだから。ざり、と音をたてて一塊になって入場した。風は生温い。

 籠る生臭さが気にならない程感覚を鈍くした鼻を、誰にも聞こえない程度に鳴らした。強敵とはいえないスライムに手こずった先の戦闘時の自分に少し腹が立っていた。そしてそれ以上に、相手側にいた、斬りつけた先から敵の回復をこなしてきた銀髪がブロントを苛つかせていた。胸元につけられたボタンのようなブローチは、自分の軍にいる僧侶とは異教の騎士階級を表すものだと記憶している。戦闘中その杖の力があまりに小賢しく幾度か本気で斬りかかりたくなった。そうしなかったのは天使より慈悲深い自分の軍の回復担当がその方は人です仲間ですと無傷でのスカウトを懇願してきたからだ。異教の友とでもいうのだろうか、一重にテミのお陰である。にも関わらず、相手の主将の首を貫いたジルバの槍を見やって一息だけつき、合間見えていたブロントに向かって冷たい視線を送り口を開いてきた男は実に飄々とした態度であった。余程図太い精神の持ち主らしい。出てきたのは三音で、爪がどうした、と思った。もう一度人形のように白い唇を動かして、クロウという、金さえ貰えるなら一緒に戦ってやってもいいがどうだ、とご丁寧にも地に刃を突き刺してきた。それがこのブローチを持つ教えでの契約の作法であり、この剣を次に握る時は貴君と共にあるか貴君を葬る時である、という意味があることをブロントは知っていた。金による契約。聖騎士といえどこいつの忠誠はテミの信仰とは別方向にあるように感じて、ブロントは人それぞれだなぁ、さて斬り殺そう、と柄に手をかけようとした。しかし次の瞬間脳裏を過ったのは、美味しそう、だった。好きな食べ物かと問われれば間違いなく首を横に振るだろう。しかしきっと一口目は食べたことのない味や食感にショックを受けて、美味しいかと問われればその場で縦に振りすぎて首が落ちてしまうような反応をするだろう、と。地面に転がるピンクの怪物に謝ったのは正解だった。なんて楽しいことを思いついてしまったんだろう。ブロントは喉を下っていく唾液がやたら甘いと思いながら、ひとまず仲間たちと今後の金の遣り繰りを額を寄せあって考えようと思った。既に右手は自身の財布を掴んでいた。

 クロウには共に行動したところで根本的な共通意識がまるでなかった。合理的で利己主義の塊のような男は、それでも契約者であるブロントの命には可能な限り従った。可能な限り、というのは、例えば今日の薪拾いや食糧調達であり、要対人な仕事、例えば資金集めや情報収集は不可能だった。加入してから初めて着いた街の酒場で歓迎会と称して飲んだ。仲間とは親しくしてくれよな、と肩を叩いて酒を酌み交わしたその時見せた笑顔はどうやらアルコールの力だったようで普段はあまり表情が変わらない。しかしやはり慣れとは凄いもので一月程たつと隊内でも気軽に言葉を交わしていた。当人がブルースと薪拾いに出た時に、お前らと仲良くやっていけてるようでよかったと心中と真逆の台詞をいうと、仲間たちはあれでなかなかいい奴だと笑っていた。しかしその夜番をしていたブロントの元へやって来たリンが、あいつ魔物臭くて厭だといってきた。ブロントはその言葉に身体中が湧いていたが、外面は極めて大人ぶった態度で諭した。隊長がそういうならと不服と尊敬とを内混ぜた様子で寝床へ戻っていったリンの後ろ姿を確認して、残されたブロントは先の言葉に身を震わせた。魔物臭くて厭とはなかなかいい表現だ。人間臭い身内に比べてクロウやリンなど後から連れになってきた者たちは新しい風味を漂わせていてひどくブロントを興奮させた。急かすように目の前の焚き火がはぜた。ブロントにはそれが腹の虫の声に聞こえた。

 黒い城の聳え立つ空に剣の弾かれた甲高い音が響いた。といっても数々の戦闘音に紛れていて気づいたのはきっと傍にいた自分だけであろうとブロントは思った。首を回せばやはり皆々様は自身の才能を発揮していて毛程も周囲を気にしていない。唯一攻撃に特化していないかの天使はブルースをつきっきりで介抱していた。戦場を見回す余裕はないようで自分の軍の者が武器を失って危険な状況に陥っているとは微塵も思っていないようで。人それぞれである。つまり、銀髪の男が剣を無くし杖を握って少しだけ恐怖と焦燥に駆られているのを知っているのは、やはりブロントだけなのである。あと少しもすれば胴と違う色の羽を持つ怪鳥が彼の身を引き裂いてしまうだろう。こちらに向けられた視線は生温い地で寄越された青とは少し違うように感じられた。あの円形闘技場のような心地よくはない生温さを帯びていた。救いに来てくれるとどこかで確信しているかのような男の眼差しに、ブロントは自分の相手をしていたコボルトの肩を叩き斬り地へ転がしてからにこりと微笑んだ。その右手に握られているのは剣の柄である。クロウはどうしたものかわからずしかしまだ生への執着を覗かせていた。三歩もすれば助けに行けるのだがブロントは動きはしなかった。先程リンも同じような顔をしていたなぁと思いながらにこにこした表情をしているだけである。生死の境目に立つ銀髪の男の胸元を見て、自分の胸の丁度同じ位置をとん、と左手で指した。クロウが口を開いた。が、それを遮るようにブロントは楽しげに声をかけた。近所の人に挨拶するような優しい声音で、バイバイ価値のない奴隷さん、と。ブロントは彼を仲間と思ったことはなかった。いつだったか懐から取り出した財布の金で契約した聖騎士はまるで同胞になってやってもいいというかのような大層な口をきいてきたがブロントにとってそれはただの買い物でしかなく、ずっと真っ白な皿の隅に残しておいた、初めて食べる料理にすぎなかったのだ。

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